芥川龍之介『歯車』(1927年作品)

 ブログ名を『40代派遣社員の読書感想文ブログ』という、いかにもプロレタリアートなムード香るタイトルに変更したそばから、プロレタリアどころかいきなり『歯車』ってのはメンタル大丈夫ですか。と我ながら自嘲せずにはいられないが、まあここ最近、学生時代以来の芥川再読熱に浮かれて、今まで読んだことが無かった後期の芥川を読んで戦慄をしたものですから、これはまあ心機一転最初の記事にふさわしかろうということで、いってみます。

 『歯車』は有名な芥川の遺作で、『河童』執筆のころの、死神にとりつかれていた芥川が見ていた世界、病に侵された身体、蝕まれていた精神を描いた、『或る阿呆の一生』と並びダウナーな作品だ。
 全編にわたりこちらまで侵食してきそうな鬱のムードが漂っているため、精神不安定の人が読むと割と危険な作品なんじゃないかと思ったりする。私も今から1~2年前の、仕事で悩み果て、神経症+適応障害のコンボで希死念慮ゲージが蓄積していたあの時に読んでいたら、ヤバかった。(って、そもそもブルシットジョブでメンタル削られていると、BUNGAKUなどは読む気力は無くなるから心配いらないんだけどね)

 この作品は何か大きなスジのあるものではなく、日記的というか私小説的に、目に映るものの多くが不気味な「兆し」に見え、そして実際に歯車の幻覚(片頭痛の視覚異常)も現れ、あらゆる不吉な兆しから逃げ惑うように街を徘徊する主人公=芥川が、しかし逃れらず少しずつ終りの場所へ引きずり込まれていく模様が描かれている。最後の最後が奥さんとのくだりで、人情味を誘う結末かと思ったら身の毛もよだつ主人公の受け取り方、そして最後の恐ろしい一文である。これは、胸の奥が黒い酸性の粘液に焼かれるように戦慄致した次第。

 でもこういう重くて深くて、後味がたいへん悪く、それがいつまでも尾を引くようなものを読むのが大好きなのよね、自分は。

 いっぽうで、ダウナー一辺倒ではない魅力もあって、たとえば冒頭。「『親子丼(おやこどんぶり)』だの『カツレツ』だのと云う紙札が何枚も貼って」ある「カッフェと云う名を与えるのも考えものに近いカッフェ」という、この序盤のユーモラスなくだりには、失笑を禁じ得なかった。というのも私、お年寄りが経営している古い喫茶店を巡るのが好きなもので。現在でも往々にしてこのような手作り感満載の雑なメニューの掲示や、統一感の無いミクスチャーな料理ジャンルなど、「これは喫茶店と言えるのか……?」と思わしめる店に出会うこともたびたびなため、「カッフェと云う名を与えるのも考えものに近いカッフェ」というツッコミのおもしろさと、大正末期から昭和初期にかけてから、すでにこのようなカオスなカッフェ(喫茶店)が勃興していたのか、という感動とが駆け巡り、作品全体が放つ固唾をのむような鬼気迫るおごそかさを前にひるみながらも、たまらず噴き出してしまったという次第です。
 ここ以外でも、大正末期~昭和初期の街や人の雰囲気が、心身病んだ芥川のフィルターを通してではあるものの、はっきりと脳裏に浮かびあがる場面が多々あり、タイムスリップしてその場にいるような感覚になれる。こういう楽しみが、昔の純文学の読み応えのあるところだと思ったりする。

 自分も大学時代、つい最近の正社員時代と、精神を病み希死念慮が高まった時期があった。そして、そんな精神不安定な時にこの作品を読むと引きずり込まれそう……とも思った。しかし全部読むと不思議と、芥川ほどの悩みや苦しみは自分にはないよ、自分のような者は軽々には死ねないわ、と感じる方が大きかった。なぜなら、ナポレオンやゴッホ、ドストエフスキーなど世界的な偉人・大作家の苦悩と並べて考えられるほど巨大な野心と情熱を持ち、そしてそれが崩壊した際に芥川に降りかかった大きすぎる呪い(漫画『ベルセルク』のグリフィスみたいだ)。これに比べれば、自分の場合は、逆説的に芥川が実際はそうではなかった「唯ぼんやりとした不安」と呼ぶにふさわしいような、現代社会にありがちな軽微な悩みに過ぎない。(いや、現代社会のそれだって、そう簡単に片づけてはいけない性質のものかもしれないけれども……)
 まあ、私はとりあえずは、今後もこのような素晴らしいBUNGAKU作品を読み散らかして感動を味わうために、細々と、粛々と、生きていこうと思います。そんなにがんばらずに。

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