勝小吉『夢酔独言』(1843年作品、2015年講談社版)

読書感想文

 勝海舟の父、江戸の不良旗本・勝小吉の自叙伝。坂口安吾の「青春論」で以下のように魅力的な紹介で手に取った本。

 僕は先日勝海舟の伝記を読んだ。ところが海舟の親父の勝夢酔という先生が、奇々怪々な先生で、不良少年、不良青年、不良老年と生涯不良で一貫した御家人くずれの武芸者であった。尤も夢酔は武芸者などと尤もらしいことを言わず剣術使いと自称しているが、老年に及んで自分の一生をふりかえり、あんまり下らない生涯だから子々孫々のいましめの為に自分の自叙伝を書く気になって『夢酔独言』という珍重すべき一書を遺した。
(中略)
 この自叙伝の行間に不思議な妖気を放ちながら休みなく流れているものが一つあり、それは実に「いつでも死ねる」という確乎不抜、大胆不敵な魂なのだった。読者のために、今、多少でも引用してお目にかけたいと思ったのだが、あいにく『勝海舟伝』がどこへ紛失したか見当らないので残念であるが、実際一頁も引用すれば直ちに納得していただける不思議な名文なのである。ただ淡々と自分の一生の無頼三昧の生活を書き綴ったものだ。

坂口安吾『青春論』より引用

 宮本武蔵の『五輪書』を批判する流れで、勝小吉の『夢酔独言』が称揚されたのだが、戦時中に「生き残るためには肉体が大事だ」として新潟の海で水泳の修行をしたり、焼け野原になった東京で燃え残った瓦礫を担いで筋トレをしたり、水風呂がいいらしいと真冬にも拘らず何度も水風呂に入った結果意識を失いかけたり、など、女性関係の話以上にむちゃくちゃなエピソードの多い安吾をしてここまで言わせる“珍重すべき一書”をぜひ読みたくなったのだ。

爆笑させられる小吉先生の武勇伝

 『夢酔独言』は、江戸時代に書かれた作品であるにもかかわらず、込み上げる笑いが抑えられない稀にみるギャグ本である。小吉先生は今でいうとヤクザの親分みたいに子分や仲間がたくさんいる不良グループのボスで、いかにもなアウトローなのだが、男はつらいよの寅さん的な愛らしさもあり、乱暴や無法も働くが頼まれれば町の揉め事の仲裁にも入る、義理人情の旧式ヤクザである。そして巻き起こす珍事件や珍騒動の数々。

  • 柔術の稽古場で悪戯ばかりしていたところ弟子仲間に嫌われ、“寒稽古の世潰し”というイベントで、仕返しとばかりに弟子仲間に帯で縛られて天井にぶら下げられた挙句、持参した夜食の饅頭を食われてしまうが、上から小便を垂れてやり返し、小便が饅頭に跳ね返って自分も食えなくなる。
  • 14歳の時に家出をして江戸から上方に向かう道中、護摩の灰なる詐欺師に身ぐるみを剥がされ乞食旅を余儀なくされ、物乞いをしながら東海道をうろついていたが、ある日山中で野宿をしたところ、寝ている間に崖から落ち、岩の角にキンタマを打ちつけて大怪我を負ってしまう。それでもめげずに旅を続け、知り合う人に歩き方が変だと不審がられながらも強がってキンタマの負傷を隠し通す。
  • 再度家出をした際は、「もし何かあったら切り死にを覚悟して出たので、怖いものなどない」などと言いながら、通行手形がないのに箱根の関をハッタリで突破のうえ、問屋場で宿泊を断られると「自分は水戸藩の家来である」とまたまたハッタリをかまし、さらにそのハッタリが成功した秘訣を「持ち物に水戸という絵符をあらかじめ書いてさしていたからだ」とドヤる。
  • 息子の麟太郎(勝海舟)が野良犬にキンタマを噛まれ生死の境を彷徨ったとき(この家族はキンタマに呪いがかけられているのか…?)、医者の診断の妨げになるからと、苦しむ麟太郎の枕元に刀を突き刺して泣き止ませたり、かと思えば医者も匙を投げた息子を甲斐甲斐しく抱いて寝て、水浴びして近くの金毘羅に裸参りをして無事病状を回復させるなど、無茶苦茶ながらも深い親の愛を示す人情譚、かと思いきや、最後は「病人は看病がかんじんだよ」とズレた締め方をするとぼけっぷり。
  • 主君の借金の金策で、摂州の領地に行き、金を出し渋る村人たちに「成果なく江戸に帰ることはできないからここで自殺して江戸への申しわけを立てる。よく見ておけ」とハラキリの大芝居を打って村人をびびらせ、「金は出しますからそれだけはおやめください!」といわせて金策を成功させる。

 など、八方破れという言葉がふさわしい無茶苦茶な生きざまが武勇伝のように語られるのである。武士でありながら素行不良で幕府の仕事にありつけなかったため、「剣術使い」を自称し四方八方で喧嘩におよび、「多勢に無勢の不利な喧嘩だったが最後は無傷で勝ったわ」的な武勇伝もたびたび登場する。話を盛ってる節もあるようだが、それにしたって面白いエピソードが盛りだくさんで、ビートたけしに映画化して欲しいと心底思ってしまった。いっぽうで最後になって急にしおらしくなり「男なら絶対おれのまねをするな」「今は書くのも恥ずかしい」と勝家の子孫に向けて正直な告白をしているところは可愛らしい限りである。

 さらにこの本の笑いの要素は、内容に加えて文体にも及んでいる。勉強嫌いだった小吉先生のにわか仕込みの筆ゆえに、おそらく言文一致でしゃべり言葉をそのまま書いているのだろうが、なまなましい江戸のことばが実に滑稽である。

 おれが五つの年、前町の仕ごと師の子の長吉といふやつと凧喧嘩をしたが、向ふは年もおれより三つばかりおふきいゆへ、おれが凧をとって破り、糸もとりおつた故、むなぐらをとつて、切り石で長吉のつらをぶつた故、くちべろをぶちこはして、血が大そう流れてなきおつた。そのときおれの親父が、庭の垣ねから見ておつて、侍を迎によこしたから、内へかへつたら、親父がおこって、「人の子に疵をつけてすむか、すまぬか。おのれのよふなやつはすておかれず」とて、縁のはしらにおれをくゝして、庭下駄であたまをぶちやぶられた。いまにそのきづがはげて、くぼんでいるが、さかやきをする時は、いつにてもかみすりがひつかゝつて、血が出る。そのたび長吉の事をおもひ出す。

勝小吉『夢酔独言』五歳のとき より引用

 冒頭いきなり語られるこの幼少時代のエピソードで、多くの読者が心をつかまれるに違いない。とにかく「くちべろをぶちこはして」とか「庭下駄であたまをぶちやぶられた」という書き方が大げさすぎて草である。そして同時に、ぶち〇〇という言い方は現在でも使われており、200年近い昔の人と同じ言葉遣いがまだ残っていることに感動もする。

昔の人との心理的距離感が近くなる

 江戸時代以前のこととなると、言葉遣いや文章語は今と違っているし、風俗も町の風景も別世界なので、外国の人であるかのような心理的遠さを感じるが、実は町の人たちが目にしていた人間関係の出来事、話していたこと、考えていたことは現代の日本人と大して変わらないのではないかと感じることがある。今でもお年寄りが、レトロ喫茶のような場所で無茶苦茶な武勇伝をしゃべっているのを聴くことがあるし、平成と令和に大した違いが無いように、江戸時代と現代も、風俗は明治維新でガラッと変わってしまったけれど、思考や心理はそれほど変わらないのではないか。この本に出てくるように、詐欺師に悩まされたり、役人の不正に憤ったり、子供の教育について心配したり、下ネタや失敗談、武勇伝を鉄板ネタのようにして笑い合ったり。そう思うと、なんだか無償に人間というものが愛おしくなってくる。

 江戸時代に限らず、『宇治拾遺物語』の下ネタ系のバカ話だったり、今ではブログやSNSに書かれているような生活の愚痴や不平不満、ライフハック的な気づきがたくさん出てくる『徒然草』など、時代を越えて、人間の思考や心理がたいして変わっていないと気づかせてくれる古典作品はいろいろある。
 本という媒体に記録されて残っているのは往々にして当時の知識人視点の情報である。戦国武将をヨイショするために書き残された盛りに盛られた英雄譚はたくさんみつかるものの、戦国時代のリアルな庶民の話は残っていないのである。文章の書けないような一般の庶民には記録の残しようがないからだが、私にとってこのような身近な庶民の話、おそらく知識人にとっては何らの価値も見出されぬようなものにこそ、人間愛をはぐくまれるのである。しかしそれは非常に希少性が高い。たとえば近年金原ひとみが「エモい・エグい・それなでコミュニケーションを済ますボキャブラリーの少ないZ世代の女子高生が主人公の小説」という半ば実験的な『腹を空かせた勇者ども』で暗示したように、これまで文章を書けない人の思考、または人生そのものは、誰にも知られず、記録にも残らず消えていったのである。最近はSNSなどでいくらでも残っているが、あのような細切れでまとまりを欠くものでは意味が無い。また、知識人が上から目線で描く庶民の話というのも少し違う。本人がずっぽりと庶民であることが大事で、その目線で、自分とその身の回りの生活を描く、という記録がたいへん貴重なのである。

 文章の読み書きの出来るものが少なかった時代に、知識層ではない(というか御家人くずれの)庶民が、自分の言葉で自分の人生を残しているのは、とても新鮮である。

ADHD的、フロンティア系人間の行く末

 最後にまったく見方を変えた感想をメモしておきたい。小吉先生のおよそ長期思考がかけらも見えない短期思考の直情的行動の連続には、現代でいうADHD的な衝動性や多動性を感じた。こうした落ち着きのない性質の人物が、江戸末期のような平和で安定していて、しかし硬直停滞した社会にいるとどうなるか、という側面で見るのも面白い。何にでも手を出すチャレンジ精神も旺盛なので、きっと混沌とした時代や無秩序な状態で初めて才能を発揮するタイプだっただろう。人類はアフリカで誕生して、現在では遍く全大陸に繁栄したが、住み慣れた自分のテリトリーを離れ新天地を求めていく人たちは、実はADHD的な性質を持っていたのではないだろうか、というのは適当な持論で、別に何か学術論文などの論拠があるわけではないが、自分はそのようにとらえている。
 奇しくも自分自身、子供のころから「落ち着きがない」と通信簿に書かれ、学校や会社のような規律や権力構造や固定観念でぐるぐる巻きにされた空間にいるとなぜか不安にさいなまれ病的になってしまう性質があり、結果バンドをやって失敗するなどして、この年になっても社会の末席に身を潜めているような次第なのだが、もしかしたら、そんな中途半端なことをしていないで、小吉先生のようにもっと無茶苦茶な生き方をしたほうが、毎日が充実した誇りを持てる生き方が出来るのでは、と思ったりする。もちろんこれまで述べたようなADHD的性質にも、程度のグラデーションがあるので、どの程度まで勝小吉的生きざまに踏み込むかは自分の器のしょぼさをよくよく確かめてから決める必要があるが、小吉先生ほどの度胸がなく割と長期的に物事をみようとしてしまうところが今日のイマイチ煮え切らない生活の遠因と言えなくも無いため、もう少しくらいは小吉イズムを自分の生き方にブレンドしても良さそうだと考えるのである。

 とにかく面白い本で、小吉先生のもう一つの作品『平子龍先生遺事』を読みたいがため、東洋文庫版の『夢酔独言他』まで買ってしまったほど、ハマってしまった。今後も落ち込んだ時などに、この書を読んで社会に打ち勝つ元気をもらいたい。

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