
矢田津世子の作品を読もうとする人の多くが坂口安吾経由だと思う。私もご多分に洩れず、直接的に矢田津世子のことが語られる『二十七歳』『三十歳』を読んで好奇心を刺激され、安吾作品への理解を深めるため読んでみることにした次第である。
矢田津世子は当時は流行作家となったこともあったようだが、時代を超える耐久力が無かったのか、現在はこの本くらいしか出版されていない。当時どれだけ売れようとも、往々にして大衆小説・娯楽小説は後世まで残りづらい。矢田津世子の作品もちょうど大衆小説と純文学のあわいのような内容で、それゆえ埋もれてしまったのかもしれないが、個人的には面白く読めた次第である。
矢田作品に当たっては、解説等を読むと「家父長制が当たり前な昭和の家庭を女性視点で描いている」というフェミニズム的テーマで読まれることが多いようだ。しかしながら、愚かな私はフェミニズム学にもてんで疎く、矢田津世子が実際どのような意図で書いていたのか不勉強ながら知らないから、この短編集に収められた作品群からはフェミニズム的な視点よりも、「家」や「家族」にまつわること、「毒親」や「家族の呪い」といった、より卑近で、SNS的なテーマ性を見出してしまった。
父
いかにも「パターナリズム」の権化のような父を中心に構築された、昭和初期の特殊な家庭(家に女中がいたり、母親の幼馴染が一緒に住んでいたり)で暮らす娘の紀久子。母が亡くなり、いよいよその気難しさに手が付けられなくなった父を落ち着かせるため、紀久子の姉の友人であり、かつ父親の愛人であるおきえさんを妾として家庭に迎え入れることになるが、そのことによる家庭内の人間関係の変化、紀久子の葛藤が、素朴な筆致で描かれている作品である。このような舞台設定は、現代では冒頭書いたようにフェミニズム的な観点から批判的に描かれがちだが、「女中」や「妾」といった設定はここでは「昭和の常識」として当然のものとして描かれている感がある。この時代それがどれくらい当然であったかは、安吾作品に登場する女性が「私、○○さんのオメカケになるのよ」みたいなセリフを言ったりすることからも察せられたが、それ以上に身に沁みたのが、先日とある食堂でそのオカミサンが、「うちの父親は何人もお妾さんがいてね~」と言っているのを聞いたときである。そのオカミサンもそこそこ年配の方であったから、父親世代はまさにこの矢田津世子作品の時代と被る。安吾の作品世界は無頼的というか、ちょっとまあなんか、そういう破天荒な世界だからしょうがないよね、くらいに思ってしまっていたのだが、実際に妾を囲えるくらい裕福な家柄の過程ではまさに日常だったということで、しみじみとした驚きを禁じ得ない。
ただ、本作に関して最も感じ入ったことはそのことではない。タイトルとはあべこべに、「母」の存在である。
母は作中既に亡くなっており、紀久子の回想でのみ登場するのだが、作中で紀久子の心の動きに影響しているのは常に母なのである。そしてそれは、父とおきえの関係に感づき、嫉妬し、いら立っていた母でもある。亡くなったはずの母が、紀久子に取り付いて、自分のいなくなった家庭に起こる変化を見ているかのような、うっすらとした不気味さがある。SNSなどでは「親の呪い」というテーマで語られるが、心理カウンセリングにおいて、とある心の問題がその親の言動や振る舞いに起因している、ということは実際言われる。私も適応障害・神経症でクリニックに通院した際、カウンセリングの過程で親からの悪影響を示唆されたことがあるが(私の父は共働きの家庭であるにもかかわらず昭和的な男尊女卑・パターナリズムの価値観が強く、またASD的な性質もあるのか暴言や家族への無関心といった態度が多かったため)、それゆえに、紀久子の中で起こる、父親への親と子としての関係性による葛藤と、母親の男と女、正妻と妾の関係性の葛藤が混ざり合っている感じに、「父」だけでなく「母」の強い影響を見て、とても興味深かった。そして、おきえの謙虚でいじらしい人柄もあいまって、紀久子の心はさらに揺れ動くのである。
私のこのような『父』の読み方は主観的な部分が強くて的外れかもしれないなあ、とは思うのだが、40年以上生きてきて未だ自分の心のありように悩まされているゆえ、物事を俯瞰的かつロジカルにとらえたり、社会的なものに昇華して見るのが難しい。とはいえ、この作品は昭和初期の(少しアッパー層の)日常でおこる葛藤の一つが記録された貴重な作品であると同時に、社会的にも、自分のように現代人的な主観視点でも楽しめる、面白い小説だった。
神楽坂
余命宣告された肺病の奥さんがいるにも関わらず妾宅通いする金貸しの爺さんの話。天真爛漫に爺さんから金品や食事をおねだりする妾のお初、その娘の稼ぎを頼りに食いつなぐお初の母親、そんな夫の妾宅通いを感じながらも病床で内職に励むいじらしい奥さん、爺さんの財産目当てにすり寄ってくる親戚、病気の奥さんのお世話をするために雇われた孤児院出で足の悪い女中のお種。子供がいない爺さん一家の養子ポジションを巡って、これらの登場人物の心の動きを、やわらかな筆致で繊細に描いた作品。資産を築いたにも拘らず、女中のお種が大根の先っぽの部分やこんぶのダシ殻を捨てると「煮つけに出来るのに」と怒り出す爺さんは、純然たる在宅プロレタリアートの私も共感するレベルのケチ臭さで(大根の皮や先端は浅漬けに、昆布は佃煮にすると美味いよね)、結局奥さんが亡くなった後になって急に不憫になって、養子になる気もなく“パパ活”的なポジションを望んでおねだり放題のお初に愛想が尽きたりと、小人物なことおびただしい。商売が成功して、チャラチャラとアッパー層の家父長制的ライフスタイルを真似してみたところで空しいばかり。財産を持った「家」を巡るこの人間模様の中で、誰に共感するかは人それぞれだが、終始穏やかな奥さんの内面の葛藤を表す、針で毛虫を刺し殺す場面に息を呑むが、安吾読者の私としてはやはり、小さな金魚鉢のような「家」という窮屈な組織的空間、権力や偏見やしきたりが渦巻くこのうっとうしい牢獄を煙たがり、のんきにオメカケとして暮らしたいと願うお初の場当たり的なふわふわした生き方が好ましく思った。
本作は第3回芥川賞候補に選ばれる。(この時の芥川賞と言えば、太宰治が「自分を選んでください」と懇願してまわっていたエピソードが有名)
旅役者の妻より
貧困・苦難の連続の旅役者の妻が書いた、家族への金策の手紙。その設定上、全編通して「信頼できない語り手」的な構造だが、単純に「旅役者」という昭和の哀愁にあふれた設定や、行く当てなく途方に暮れた時に現れたお金持ち、そのお屋敷で親切にもお世話になるうちに、旅役者の旦那とそこの奥様が不倫関係になって……という、楳図かずおや伊藤潤二を思い出させるある種お決まりの展開が単純に面白い。「家」にとらわれる人たちがテーマになっている作品が多い中、少し毛色が違う作品である。
女心拾遺
「稼ぐのは男で、家族や組織を束ねるのも男、それを支えるのが女」といったジェンダーロールが当然のごとく存在していた昭和初期、やはりここでも会社社長の亭主の女遊びに悩まされる老婦人が主人公。しかし本作では、夫は芸者遊びのみならず、若い女中の“おしも”にご執心なのであった。浮気相手が家庭の外部ではなく、中にいることで、老婦人の苦悩も烈しく描写されている。現代ならこんなもの即離婚だろうが、そんな考えが全く出てこないのも、そもそも高齢の女性が離婚して一人で生きていける時代ではなかったからか。近代化してもなお、大河ドラマに出てくるような戦国武将気取りのライフスタイルが残っていることに驚かされる。そんな感じで、非常に昭和の時代劇・昼メロ感を感じさせる作品。
凍雲
矢田津世子の故郷・秋田の五城目町を舞台に繰り広げられる若い男と女の伝統的悲劇譚。といって、死人が出るような話ではないが。古い時代の若い男女の恋愛は親、というよりも「家」の都合で引き裂かれがちだ。民話や小説で、昔の漫画や映画で、そんな話はいくらでも出てくる。私は子無し夫婦で親元を離れて能天気に暮らしているためこういった話に出てくる親たちの「家」への執着心はよく分からないのだが、自分にもし子供が出来ていて、過去と未来の「家系」を意識せざるを得なくなったとしたら、もう少し違った見方が出来たのかもしれない。今はただただ若い二人の悲惨な破局がかわいそうなのと、冒頭に出てくる当時の鉄道の描写への興味深さがあるのみである。現・八郎潟駅はかつて一日市駅であり、さらに昔は五城目駅だったが、後に五城目町の中心部まで五城目軌道(後の秋田中央交通線)が開通したためか、一日市駅に改称された。「町の人たちの中には、軌道を利用する人が少ない。結構足で間にあうところへ、わざわざ、金をかけることの莫迦らしさを知っていたから、大ていは、軌道に沿うた往還を歩いて行きかえりした。」とのことで、戦後に電化を果たしたものの、現在は当然廃線となっている。鉄道好き・廃線好きには貴重な描写ではないだろうか。
痀女抄録
“せむし”の女性・寿女の一生を描いた作品。14歳のころ病気をこじらせ、背が曲がり瘤のある身体で生きていくことになった寿女は、自らが差別や偏見の対象であることを理解しながら、あえて自分の身体的障害を「ネタ」にして笑いを取る道化的なキャラクターを演じる、という処世術を身に着けた。しかしそれは自分の本心をひたかくしにする人生でもある。気難しい刺繍職人の加福に才能を見出され、男弟子2人と共に刺繍の修行に励むが、ここで芽生えた恋心と、それを素直に表現できなかったことが発端となり、それまで表面上はうまくいっているように見えた彼女の人生が暗転。加福の元を飛び出し、病気の母親が亡くなった後、知り合いの家のお手伝いとして暮らす後半はただただかわいそうで、胸が締め付けられる話だ。
芸術の才能があるゆえにおそらく人の親切心の裏に潜む本音も感じていたであろう寿女、その寿女を取り巻く人間たちの心理を繊細に描いていて、型通りの優しさが冷たさを感じさせる尾久の親戚、利己的な計算高さと同情的な本心が半々の人間的な業を感じるソプラノ歌手、家では懐いているのに外で声をかけると顔を赤らめて逃げてしまう少女、など表面的にはみな寿女に対してあたたかく接しているようでいて心の底では憐れみや恥といった目で彼女を見ているのが切ない。
本編は、加福とついきあいのあった第三者が語り手であり、寿女が亡くなった後の時間から、回想のような形で語られる物語である。それゆえ、寿女自身のモノローグ的な本心が語られることがほとんどなく、行動の真意が隠されている。これが冒頭の伝統刺繍の世界の長い前振りもあって、寿女の遺品となった若鷹の刺繍に込められた想いの強さを際立たせていて、胸に迫る。
1度目よりも、2度目に読むほうがグッと来る、味わい深い心に残る物語だった。
茶粥の記
夫に先立たれた妻・清子が、姑とともに東京から故郷の秋田へ引き上げるお話。区役所の戸籍係のかたわら今でいうグルメライターのようなことをしていた夫との食にまつわる思い出に浸りながら、仲の良い姑とともに温泉旅行をする、というほのぼの系の人情譚のよそおいでありながら、夫の喪失感を埋めるための存在として姑は少し不完全だし、夫は食べたことの無い料理をさも食べたことがあるかのように語るエセグルメライターだし、目に入る風景、温泉旅行の途上で起こる出来事から、どこか背後にうっすらとした空虚さや、しずかな諦念のようなものが漂っている。が、それもはっきりはしていない。
この作品で印象に残るのはとにかく茶粥が美味しそう、ということである。なので、作ってみた。本作に出てくる茶粥は「極上等な緑茶」を使うアレンジバージョンのようなので、まずは奈良の郷土料理として伝統的な、ほうじ茶で作るバージョンで試してみた。
またこれにも、炊いた米をほうじ茶と一緒に煮るのか、ほうじ茶と一緒に米を炊くのか、2タイプの茶粥があるらしいが、朝ご飯でサッと食べたかったので炊いた米をほうじ茶で煮て作った。
茶粥には好みの具を入れて良いそうなので、本作に出てきた梅干し粥をまねて、家で常備している中田食品の美味しい紀州の梅干を入れてみた。正直おかゆはもともとあまり好きではなかったのだが、ほうじ茶の香ばしい香りと塩気が素朴ながらも味わい深く、さらに、もともとお茶に入れても美味しい梅干しが茶粥に合わぬわけがなく、酸味と塩味と旨味もプラスされて最後の一口まで飽きずに食べることが出来た。美味しかった。
ほかにも、私も行ったことがある長野の霊泉寺温泉が出てきたり、甲府のお土産として有名な煮あわびについてのお話がでてきたり、なんか話の主題よりもエッセイ的な小さな話題の方に興味が行ってしまう作品である。
鴻ノ巣女房
秋田に「コウノトリの恩返し」という「鶴の恩返し」系の民話があるようで、コウノトリらしく男との間に娘が生まれ、自分が織った織物を売って娘と裕福な暮らしを提供し去っていく、という、鶴よりも豪華な恩返しのうえ「見るなのタブー」的な後味の悪さがない、もしコウノトリが困っていたらぜひとも助けたくなるようなお話だが、冒頭その昔話をフックにして語られるのは、機織りが得意な不美人の独身女性“ぎん”がヒモ男にひたすらカネを貢ぎ続けるという悲惨なお話である。ヒモ男にとってぎんはATMのように便利な“鴻ノ巣女房”だし、ヒモ男の連れ子の世話をさせられたことでかりそめの「家庭」や「育児」を体験させてもらえたぎんも幸福感を感じており、たしかに本人たちの中では報恩譚のような世界にいるのかもしれない。しかしハタから見ればただのロマンス詐欺の関係で、ぎんが見る夢の世界(レースのカーテンがはためく平和な洋間)の描かれ方も、現実の世知辛さと対比されてどこか切ない。さんざん貢いだあとにぎんに残った百二十八円は、当時のレートや、当時の独身女性にしては、割と持っていた方なのか、羽根をむしり尽くされ去らざるを得なくなったコウノトリなのか。
まとめ
矢田津世子の文体はとても上品で美しく、読んでいるだけで清らかな気持ちになるし、家庭のなかでの当時の女性の役割、その繊細な心の動きを捉えた作風は興味深かった。いっぽうで坂口安吾が自身の作品の中で描く女性像とは、かなり異なる印象でもある。まったく違うからこそ惹かれ合うという恋愛の法則もあるだろうが、三千代夫人の『クラクラ日記』を読むとまさしく安吾作品に出てくる女性キャラのような印象なので、一方は別れ、一方は添い遂げることになったのは必然かなと思った。
それとは別に、安吾が入り口でなかったとしても面白い小説なので、現代でももっと読まれてもいいのにな、と思う。過去の文学作品は、重厚なテーマが潜んだ芸術的純文学か、軽妙な人情譚が普遍的に心を打つ大衆小説の名作か、そのどちらかしか残っていないが、矢田津世子のどちらもちょうどいい塩梅で混ざっている、最近でいうJ文学的な、やや軽みを帯びた文学作品というのも、そこからしか見えてこない当時の情景というのがあって興味深いのである。


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