多動的随想02 – 「心の奈落」と「高所恐怖症的な空想」について

随想

 高層ビルのエレベーターに乗っている時、自分がとんでもない高所まで持ち上げられているうえ、この床の下は何も支えるものが無い穴である、という事実をうかつにも考えてしまい、もしこの箱が突然落下しはじめたらどうしよう、などと心配するあまり、恐怖で身がすくむ思いがする。

 「自分が今いる場所のことを改めて深く考えてしまう」と、高所恐怖症に限らず、どんなものにだって不安や恐怖を感じるはずだ。

 人間関係なんかは特にそうで、それはつまり「他人の内面」という名の「奈落」が存在しているから。

 相手が突然怒り出して、私に攻撃してくるかもしれない。私に憎悪のまなざしを向けてくるかもしれない。私の知らないところで、私を嘲笑しているのかもしれない。

 しかしそれは同時に、展望タワーの透け床の上に乗ろうとして「もしこの床が抜け落ちたら……」と想像し恐怖を感じるのと同様、ありえないことが起こることを前提にして感じる不安や恐怖とも同じである。

 人間は通常、自分の「心の奈落」を表には出さない。社会的に、よろしくないことだからである。だから私のような者が、相手の心の外殻がふいにとりはずされ、相手の奈落に飲み込まれるのではないか、と恐怖を感じるのは妄想的である。

 人間はうわべを取り繕う。それが大前提と考えれば、うわべはある種真実である。私は社会的にこのように見られたい、あなたとの関係をこのように取り繕っておきたい、ということの表現がうわべだ。そして、その裏に隠されている思考のうごめきが、奈落である。その奈落部分を「出さないようにする」のが人間の性質であり、たしなみで、そうでない人間は、狂人と呼ばれる。
 時に激高した人物が奈落を一瞬だけ曝け出すことがあるが、それはこちら側の過失というより相手側の過失で、いうなれば事故である。
 SNSという場で自身の奈落をひたすら見せびらかしている人物もいるが、SNS自体が奈落ととらえるべきなので、これは不自然なことだ。見なければよい。

 他人について深く考えるとき、それが相手の奈落部分に及んでいないか、または自分が相手の奈落に落ちこむ空想に耽っていないか、ということに注意すべきで、奈落がきちんと蓋されているのであれば、その蓋が突然外れる(突然相手が怒り出す、私へ憎みのまなざしを向けるなど)、といった空想をせず、蓋は地面のように強固であると考えればよろしい。うわべだけをみて浅く考えるべきだ。

 また、こんな考え方も良い対処法のように思える。高低差があるから恐怖を感じるのであり、奈落との心理的な高低差を緩和するような認識を、普段から心がけておくのだ。

 私のように思考が暴走して、考えなくてもいいことを深く考えがちな人物というのは、往々にして自分の内面にこそ深く奈落を穿っている。ゆえに、他人にも当然それがあるだろう、と認識してしまい、恐ろしく感じてしまうのだが、実は相手の内面の奈落は大した深さでない、もしくはそもそも奈落などない真っ平らな心の人物もいる、そういった人間の多様性も頭に止めておくと良さそうである。

 曖昧な概念にとりあえず依拠しておくこと(エレベーターが落ちるわけがない、と仮定して満足する)。鈍感でいること(そもそも今自分が高いところにいると思っていない)。高所恐怖症的な妄想に浸っていないか、常に自分自身の思考の動きを監視すること。
 私のような人間は、世の中を渡り歩くとき、常にこういったことを念頭に置いておかなければならない。面倒くさいが、仕方がない。

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