
電車通勤の2時間は、プロレタリア文学を読むに限る。理由は色々あるが、現代の労働環境や資本主義社会の奥底に隠された獰猛さを改めて認識させられるからだ。いや、隠されているのはごく一部で、多くの会社では薄皮一枚の下にグラグラ煮え立っているのが見えちゃってるし、なんなら薄皮一枚すら存在していない剥き出しのブラック企業というのは、まさにプロレタリア文学に描かれているような世界観そのものだ。幸い自分の今働いている場所はとても穏やかだが、前職は薄皮タイプの会社で、結果的に適応障害になって退職した。「ブラック労働は良くない!労働環境を改善しよう!」という優しいムードに騙されそうになるが、そんなものは薄皮で、未だに私たちはプロレタリア文学の世界に生きているし、私も含め多くの労働者は純然たるプロレタリアートである。
名作『蟹工船』と、併録されていた『党生活者』は大変面白く読んだ。前者はあまりにも過酷なブラック労働の現場と搾取される側の憤り、ブラック労働に対抗するにはいかに労働者が団結して組合的なものを作ることが必要か、という今でも十分共感に値する内容で、後者は、これは全体主義・軍国主義時代の日本において、特高警察の目を逃れながら隠れ共産党員として、労働者の組織化に奔走する話で特に共感するものは無いと思われながらも、ADHD、HSP傾向のある私は、外に出ると「変な奴と思われていないか」「相手の気を悪くさせやしないか」「まともそうに振る舞わねばならない」と常に意識しており半ばスパイや潜伏する反政府活動家のような気持ちでいるため、結局これもどこか自分の心象風景と共通した世界観に思われ、やはり共感的なものがあった。
そんな流れで、この『防雪林・不在地主』にも興味を持ち手を出したのは自然な流れである。
防雪林
『防雪林』で描かれているのは、戦前の北海道の農民の暮らしである。
石狩川には鮭が泳いでいるが、流域住民に漁業権は無く、芋しか食べられない極貧生活を送っている。
現代でも、農家だけで食っていくのは大変だ、と聞くけれども、仕事がたくさんあるので副収入を得ることもできるし、ここまでひどい生活にはなっていないはずだ。やはり現代は良い時代になったものだ、とそう余裕綽々で読んでいられないのは、地主 vs 百姓の構造である。これはそのまま、資本家・経営者 vs 労働者、の関係で今なお読めてしまうのだ。いやそれだったら『蟹工船』がストレートに資本家・経営者 vs 労働者の小説じゃないかと思うが、『蟹工船』は現代においては一部の超ブラック労働にしか見られないので、どちらかというと『防雪林』のほうが、会社員の実感としてふさわしい。
たとえば、地主は百姓を集め集会を開き、坊さんを呼んで、労働の意義とすばらしさを説かせる。
現代の資本家や経営者は、社員を集めセミナーを開き、意識高い系講師がキラキラした説法を説き(マインドフルネスやらなんやら)、他責の芽を摘み取り、代わりに自責の苗を接ぎ木する。
百姓は地主に不満を抱きつつも、地主がいなければ自分たちは仕事も食べ物も無く生きていかれない、と現状を甘んじて受け入れている。
社員は、ここを辞めても他にいく場所なんてないどこに言ったって同じだ、そう諦めて、現状を甘んじて受け入れている。
その中で、反逆者はいつだって空回りだ。組合を組織しようとしても、事なかれ主義の者たちに止められる。それでも意を決して地主に闘争を挑むも、権力にねじ伏せられる。主人公の源吉は、今でいうダークヒーローのような描かれ方で、個としての意思が非常に強く、周りに流されず、その意思を貫き通すためなら、密漁・強姦・放火など、善行と悪事のラインを簡単に踏み越える。地主にしてやられた後のラストは、漫画『ベルセルク』のガッツさながらの、復讐の黒い炎を噴き上げる。
結局我々は、いつまでもどこまでも、飼いならされた家畜のようなもので、私腹を肥やす欲望の大魔神たる権力者たちに、歯向かう牙は持ち合わせていない。軍国主義に突き進む当時の日本において、権力者たちへ牙をむき出しにした作家、その荒々しいデッサンのような作品である。後年のような労働組合の組織読本的な政治思想色は弱いため、「破天荒な社会的弱者が、権力者に無謀な戦いを挑む」系の話として、割と受け入れられやすいのではなかろうかと思う。面白い小説だった。
不在地主
いっぽう『不在地主』は、プロットは『防雪林』とほとんど同じなのだが伝えようとしていることに違いがあり、こちらは労働組合の意義や、労働組合を組織しようとした時に起こること、またその問題にどう対処すればいいか、をシミュレーション的に描いているような印象で、先ほど述べた「労働組合の組織読本」的な内容だ。源吉という“人間”を描いていた「防雪林」と対比すると、淡々と順を追って全体の事象を描いていて、主人公の健も大人しく、存在感は薄い。いちおう『防雪林』は未発表の習作で、正式に発表された『不在地主』のほうがプロレタリア文学として評価が高いそうなのだが、文学も趣味程度にかじっているだけの私で、さらに共産党員でもその支持者でも、まして労働組合員でもない私としては、『防雪林』のほうが感じることが多く、面白いと思ってしまった。
ちなみに、プロレタリア文学、特に小林多喜二作品というと、多喜二が共産党員で、特高警察に拷問を受け亡くなったということもあり、とても左翼的で資本主義打倒を決意してしまうようなアカい内容なのかと心配される向きもあるかと思うが、全然そんなことはない。今読むと、「人に雇われることでしか稼ぐことが出来ない労働者は立場が弱いので、団結してまとまって交渉事をする必要がある、だから労働組合って大事だね」という当たり前のお話しか書いておらず、手取りが増えずに苦しくなっている今、そして未だに存在しているブラック企業・ブラック労働に直面する今、労働組合の意義を再認識するのに最適な内容だと思う。
作中にもよく出てくるが、「こんな状況はおかしい、直訴する!」と言い出すと、「偉い人が決めたことなんだから、きっとこれがベストなんだ。私は今で満足だから事を荒立てないでくれ」という人たちがたくさん出てきて、同調圧力的に止められたり、除け者にされたりする場面は、現代社会でもよくあることだ。それにほだされているうちは何も変わらないし、そんな「鈍感さ」に付き合って苦しみ続けなければならないのは耐えられない。結局、昭和初期の労働環境に戻りたいと思う人が今はもういないのだから、変わったほうが良いことは行動を起こして変えるべきなのである。そしてそれは、政治家や芸能人、インフルエンサーや起業家など超人的な人物がやることなのではなく、私たち庶民一人一人が負った役目なのだ、ということを痛感する次第だ。


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