九段理江『東京都同情塔』(2024年作品)

読書感想文

 ふだんは昔の小説ばっかり読んで、古臭い言い回しを嬉々として覚えて好んで使っているのだが、あまりにも昔風に偏るのも現代人としてのバランスを欠く、ってことでたまには新刊本も読みたい。作中で文章生成AIを使っているとか、芥川賞にしては珍しくディストピア小説ぽいとかいう評判を見て、良い感じの同時代感が摂取できるのではあるまいかと企んで読んでみた本作。

 犯罪者は憐れむべき“ホモ・ミゼラビリス”であり、刑務所ではなくタワマンのような至れり尽くせりの施設「シンパシータワートーキョー」に収容するべきである、という寛容さや多様性思想が行き過ぎた日本を舞台とした、非常にディストピア小説好きを期待させる設定を持つ本作は、しかし「犯罪者にまで同情できるのか?」といったテーマの掘り下げはあまり行われず、塔に収容されている犯罪者も風景的に描かれるのみでほぼ登場しない。この作品は基本的に「AIと言葉」についての思考実験で、全体的に、(私のような)多動傾向の人の頭の中にいるような、登場人物の空転する思考、脳内対談、無限連想ゲームの描写でほとんどが埋まっている。

 人々の思考・志向の多様性がSNSで可視化されてしまった現代。それらを尊重しようとするあまり、「この言葉を使うと、あの人が傷つくかもしれない」「この表現は、こういった場ではふさわしくない」といった自己検閲の手間ばかりかかり、意思疎通が困難になってくる。「東京都同情搭」がなぞらえるのは、傲慢な人間に対して神が与えた罰である「言語による分断」というバベルの塔である。

 そして、本作に登場する人物が、それぞれ本能的に浮かんだ純粋な想いをセルフ検閲によって困惑しながら必死に矯正して言葉をつむぐ一方で、生成AIは、感情を持たずミノムシのようにネットに散らばった言葉を器用に紡ぎ合わせて、倫理的で道徳的な「模範回答」を迅速に示す。さながら理想の人類のようである。人類は「模範解答」のような“思考”をしなければならないのか? 言語化される前のイメージや感覚の部分にまで侵食してくる問い。「心の罪も神はさばく」といった“キリ看”的な内心の自由の侵害の象徴として、東京都同情塔は特定の人間の憎悪の対象となっている。誰かが決めた概念やものの考え方があらゆるところに蔓延し、1分1秒のこの瞬間も誰かに脳みその中まで支配されているような感覚。そこから解き放たれることはあるのだろうか。

 本作の最後は、自分の中の、言葉になる前の思考のオリジンを守り、外部の模範解答的侵食と闘いながら、それでも言葉にしていくことを死ぬまで続ける決意が迸っているように思った。

 と、読んでいる最中思ったことをざざっと分かりにくい文章で凝縮してみた。一方でライトな感想もある。

 「現代社会で”生存”に何も困っていないインテリ勝ち組の登場人物が、何か自己実現に絡む抽象的な概念に思い悩み始めて、そして抽象的に生きづらくなっていく」タイプの小説が、私は自分の人生に照らし合わせて非常に嫌悪感を感じるのだが、メインの登場人物の一人が天才建築家の女性、もう一人がK-POPアイドルみたいな美容に気を使う若い男性で、ママ活のような関係にある、ということで、その嫌悪感スレスレの作品でもあった。また、牧名沙羅の喋り方がどうにも現実離れしているというか、生身の人間感がない漫画のキャラっぽい「架空の理系女子」なしゃべり方というか、まあ漫画やドラマなら別にそういう架空のキャラです、で済むんだけど文学作品なので、自分の近しい年齢の人でこんなしゃべり方の人いるかな? もしいたとして、まともな人間関係を築いて建築家として成功できるのだろうか? とどうしても気になってしまった。また拓人もどこか生身の人間を感じさせない、良き遺伝子を持って作られた温和な人造人間のようで、つかみどころがなく感じる。まあ、在宅ワークが主で人とあまり接することが無く、知り合いも少ない私が、生々しい人間とは、を語るのはおこがましい気もするし、それゆえに勘違いであるようにも思う。

 芥川賞受賞作というのは、たいていその著者の一番好きな作品ではないことが多いので(未完成な部分にこそ著者の生々しい表現や個性が見えるので)、このあたりの違和感の真偽を確かめるべく、著者の他の作品も読んでみたい次第だ。

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