昔の日記を読んで感じた「自意識」と「自己愛」の違い

過去の日記って、みんなどのように処置しているのだろうか。
何十年も保管しっぱなしだろうか。
ちょくちょく引っ張り出してきて見返したりするのだろうか。
歩い程度古いものから捨てていくのだろうか。
まあ今はブログやSNSがあるからそんな心配は不要だし、日記を捨てるか保管し続けるかなんて自分で決めることだ。周りがどうとかどうでもいい。

今はおそらく23歳、ちょうどイギリス留学する前の頃の日記を読んでいる。
今とあまり変わらないような悩みや迷いに直面しつつも、かなり活動的な時期だったので、若者らしいイキったことも書いていつつ、なんだか自分じゃないみたいな思考をしているなと思う部分もある。
そして、パソコンではなくメモ帳に書いているため、文体が町田康の小説のようになる町田康病の発症がかなり抑えられている。
読みやすく、的確な言葉選びで、今よりも文章力があったと感じる。
それはたぶん、当時いろいろな小説を読んでいたから。
最近の私といえば漫画や新書ばかり。そりゃ文章も下手になる。

当時は自分のことを「自分にしか興味の無い人間」だと思っていて、それはつい最近までそうで、自分の悪い性格として認識して生きてきました。
しかし、最近起こった出来事のおかげで、それは間違った認識であることが分かったのです。

私は「自意識が強い」というだけで、「自分自身への興味」はむしろ無かった。それが真実でした。

「自分自身への興味が強い人」は、自分は何が好きで、何が嫌いか、何が得意で、何が苦手か、それはなぜか。他人に自分がどう魅力的に見えていて、どのように評価されているか。そこまで、いつなんどきでも、はっきりと認識しています。
そのうえで、「自分らしい生き方」を演出したり、キャラクターを演じたりしています。
ゆえに、このような人物の中には「ナルシスト」と周りから評価される場合もある。
それは負の側面でもあるが、「自己肯定感が高い」という正の側面もある。
またこのような人は「自己分析」が済んでいるため、キャリアの選択で悩まない。経歴にも一貫性がある。
これもまた正の側面だ。

いっぽう私は単に自意識が強いだけなので、周りと私を切り離して物事を考えることに常に立脚しており、故に一人で考え込む傾向がある。
それは、周りと自分がどう違うか、相手がどんな自我や自意識を元に駆動しているのか、そんな「他者意識」に相対した時に自分がうまく「機能」するためにはどう行動すべきか、という「外部」対「私」の関係性についてのみ、ずっと考えているのです。これはつまり、「周りの顔色をうかがう」という行為に他ならず、「外部」に自分をどう「合わせて」いくか、という、自分と他人が違うことを強く認識したうえで、自分を他人にどう適合させるか、という思考。そしてこの間、頭の中でずっとひとりごとを言っている状況なので、この時間が長いゆえ「私は自分にしか興味がないのだな」と勘違いしてしまったのです。

そしてこの勘違いが、最近の失態を生みました。
私は自分のことを100%理解していると思い込んでいたが、適応障害になってそれが崩壊しました。
理由も分からず、今までライフワークのように続けていた楽しい趣味、イラストを描いたりだとか、温泉・グルメ旅行をしたりとか、そういうあらゆるものに楽しみが見いだせなくなったのです。
たとえばペンを持ってイラストを描こうとしても、数分後にはすぐにペンを下ろしてファイルを閉じてしまう。何を描きたかったのか分からなくなり、今まで書いたイラストも何が良いと思って描いたのか、まるで分らなくなってしまったのです。
旅行に行っても、ワクワクウキウキとした気持ちは膨らまず、車の運転が疲れた、こんなことは単なる散財で自分にとって何の意味もない、他人の商売に搾取されるだけが私の人生か、来週もまた陰鬱な仕事だ、といったような思考がめぐり、憂鬱と不安が休日の観光地にすら忍び寄ってしまい少しも心が休まらない、という体たらくでした。
これがなぜ発生したのか、まるで分らない。いつの間に適応障害になっていたのかもわからない。自分は何が嫌だったのか、どこで何が歪んだのか、まるで分らない。
その理由は、なんなら妻のほうが理解していたのかもしれない。そんなエピソードもいくつかありました。
「会社員になることはムリである」というのは、学生時代に学んだことで、20年前の日記にも、何度も書いてありました。故に今までは小規模な小売店や非正規雇用で溌溂と生きてきたのでありますが、それを忘れて会社員になり、中間管理職にまでなったあたりから、もう不適応が起こっていたんでしょうね。
気づいたころには時すでに遅く、私は学生時代以来の、適応障害&ノイローゼにふたたび罹患してしまったのでありました。

適応障害なんてものは、そもそも自分が適応できないような場所に自分を追い込んでいるからなるようなものなので、つまり自分のことを理解していない証拠。

適応障害は英語でAdjustment Disorderですが、Adjustment=調整、つまり、調整や適応を行わなければいけないほど周りの環境に変化が起こった際に発生するストレスにより罹患するものです。自分自身への興味が強い人は、その環境変化が自分に害を成すかどうかがすぐにわかるはず。なので、そもそも慣れない環境に調整・適応させようと思わず、それを避ける行動をとるはずですし、急にそうなっても困らないように、普段からいろいろな逃げ道を作っているでしょう。
私のような人間は、外部環境が変わったのだから自分もそこに合わせなければいけない、と不用意に、同時に強く考えて、自分を地獄に追い込んでしまう。

自分の中から「外部因子」を潔癖レベルに排除して、きれいさっぱりな「個」を作り上げる。
良いことのように思いますが、結果得られるものは、社会からの孤立感と、生命の危機の予兆からくる強烈な不安感、それから生まれるノイローゼです。
適応障害のリスクに対しても、あまりに無防備です。

自意識の足らない人というのもそれはそれで問題ですけど(他人に危害を加えるタイプが多いように思う)、いっぽうで自意識を暴走させすぎると自滅する方向に向かう。
自分の中の自分とちゃんと向き合って、「外部」vs「私」の作戦会議ではなく、「私」vs「私」の精神修行をちゃんと持続させていないと、このような事態になるのです。
自己分析や自己プロデュースを普段から心がけていることで、避けることが可能なディスオーダーです。

自意識が暴走する結果、こうやって文字として刻み付けておかないと頭の容量をひっ迫して生活に支障をきたしてしまう。だから私は日記を書いたり、ブログを書いたりする。SNSも当初その自意識暴走メモのために使っていたのだけど、あそこはそういった目的のために使う場所ではないですね。むしろ自意識が曖昧な人が誰かと一体感を得るため、または、自分のことにしか興味の無い人が、自分がどれくらい影響力があるかを試す場所として、使われる空間です。

また悪いことに、自意識はどうも「自分の失敗」=「外部意識との関係性構築の失敗」についての興味は強い、という特性もあります。自分は何が得意であり誇りである、とか、自分の長所が周りからどのように好意的に受け止められているか、といったポジティブな方向には働かず、「私は他者に、“仕事が出来ない奴”と蔑まれているんじゃないか」「“痛い奴”と罵られているんじゃないか」など、一般に「自意識過剰」という症状だけが発動している状態。これもまた、自分を過剰に追い込む原因になります。

こういった反省も必要なので、要は「バランス」ということなんでしょう。

「自画自賛するナルシスト思考」で自己肯定感を高め他者と積極的に関わりつつも、「自己批判する自意識思考」で自分と他者の関係性を検証し反省する。これが両方ないとどっちも病的になる。前者だけしかない者は自己愛性パーソナリティ障害的な方向に向かい、自己評価と他者評価の落差に憤りルサンチマンを爆発させる「怒れる他責思考者」と成り果て、後者、つまり私のような人間は、適応障害・抑うつ・ノイローゼ・うつ病に自分を追い込む「悲しみの自責思考者」で、最終的には自死に至る。

両方の思考をバランスよく駆動させることで、人はしっかりと社会を惑わずに歩いて行けるんだろうなと思います。

そして、こんなことを気づかせてくれる過去の日記は、まあ邪魔にならんのであれば取っておいたほうが良いな、と思った次第であります。

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